その日は、よく行くショッピングモールの食料品売り場の入り口で、並べられたミカンの前と、リンゴの前で行ったり来たりしながら、今日はどれを買おうかと、迷っていた時だった。
肩をトントンとたたかれ、「◯◯さんっ!」と呼ぶ声に振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべて赤ちゃんを抱く、M先生の姿があった。
「あれーっ、M先生お久しぶりです~っ。てゆうか、ええーっ?赤ちゃん、生まれたんですかあ?」
「そうなんよ」
「ええーっ、おめでとうございますぅ!いつ生まれたんですかあ?」
「半年前」
着せている衣服を見たら、所々青い色が入ってる。お顔立ちから見ても、たぶん男の子だろう。とても健康そうだ。
「男の子ですか?」と聞くと、
「そう」
「かわいい!先生に良く似てる!良かったですねえ!」と言うと先生は、益々弾けるような笑顔になった。
「でも先生、私のこと。よく判りましたねえ。マスク付けてるし、あれからだいぶ、歳寄ってますけどねえ。」と言ったら、
「いやいやいや」と、M先生。
「先生は、今もこちらの病院にいらっしゃるんですか?」と聞いたら、
「そうですよー」
「じゃあ、先生もお身体に気を付けて頑張ってくださいね!」と言うと、
「はいはい」
ちょっとぐずって、足を動かし始めたベビーを落とさないように抱き直し、M先生は笑顔のまま、先に売り場に入って行ったであろう奥様を追いかけて行った。
あ、そうだ、あれを言っておかなくては…。
M先生の背中に向かって私は、「先生~っ、もし私が入院したときはよろしくお願いしますね~っ!」と叫ぶと先生は、振り返りながら少し首を横に振ったあと、ニコッとしてうなずいた。
私は、その日一日、微笑みが止まらなかった。
以前、医療データの集計・統計や関連の事務的業務を担当していた私は、担当診療科の医局の部屋の一つでデスクを与えられ、従事していた。
こじんまりした部屋で、私のデスクの隣の隣が、M先生のデスクだった。
大学病院の医師は、部屋でゆっくりできる事はほとんど無く、早朝からミーティングに外来診療。宿直やオンコール体制もあり、夜中に緊急入院・手術の対応をしたあと連続でまた外来診療をしたり、外勤に出たりして昼食も不規則。いつも院内のコンビニ弁当ばかりを食べている。
本当に「ブラック」なんだけど、ほとんどの医師は皆、「患者さんのために」と使命感を持って働いている。
M先生も忙しくされていたが、部屋に戻って来た時は、気さくによく話をしてくれた。
「自分は結婚が遅かったので、早く子供を作らないといけないんだけど、家でゆっくり過ごす時間がないので、子供ができるはずが無い」なあんて笑いながら話してた。
自分の担当患者が退院するときも、転院先を親身になって探して(普通は[医療連携室]の担当者に任せる)、退院の直前も声かけのためベッドを訪問する。
「自宅にもらい物があったんだけど、夫婦二人で食べ切れないからどうぞ」って言って、何度かおすそ分けをいただいた事もあった。
どちらかと言うと、童顔でかわいらしいお顔の先生は、年齢より若く見える。
でも働き過ぎだよなあ、お身体大丈夫かなあ?などと、私の息子よりは、だいぶ年上なのに、何だか自分の息子のように心配してしまう私が居た。
だから私が退職する日は、先生は部屋に戻って来なかったけど、洋菓子の詰め合わせパックの上に、小さなメッセージカードを付けてデスクに置いてきた。
お世話になったお礼の言葉と共に、「先生、お身体大切に!家族を大切に!」と書いて…
あれから、もう2年半が経つのか。
よくもまあ目まぐるしい生活の中で、私なんかの事覚えてて、こんなところで声をかけてくれたもんだ。
だって在職中、無愛想な医師は、たくさん見かけたから。
挨拶を返さないとか、依頼されたデータを送っても、有り難うのひと言はもちろん、届いたという返信すら無いような人も何人も居た。
でも、M先生のおかげでこの日、玉のような赤ちゃんを見る事ができて、幸せだった。
やっと(?)生まれた息子を、こんな私にでも見せたかったのかな?
「本当に先生、声を掛けてくださってありがとうございました!」という気持ち。
「先生、これからもどうぞお幸せに…」と祈らずには居られない!
て言うか、私なんぞが祈らんでも、M先生なら既に充分幸せなんでしょうけどね。
久しぶりに、胸がホッコリした一日だった。